しーらかんす式

音楽と日本語と中国語のブログ

毎日一語、中国語~小康の家(中国共産党用語)

まだ辞書に載っていない中国語の新語をひたすら書き連ねていきます

f:id:coelacanthidae:20201115105445j:plain

小康の家/ややゆとりのある家庭(Moderately Prosperous Family)

しょうこうのいえ

1970年代末に、当時中華人民共和国の最高指導者だった鄧小平が語った中国式近代国家のイメージのこと。 

f:id:coelacanthidae:20210522170223j:plainBaidu.com

広東省潮州市にあるらしい怪しいコンビニ。間違いなく日本とは無関係と思われます。

 

 

 

小康之家 [Xiǎokāng zhī Jiā]

中国語の"小康"は辞書に載っているとおり家計にややゆとりがあり、安定した生活を維持できる状態のこと。つまり生活水準のレベルを表す言葉です。日本語の「小康」とはニュアンスがだいぶ違うのでご注意ください。

したがって、"小康之家"ややゆとりのある生活を維持できるレベル家庭中間層の家庭という意味になります。

"小康之家"は怪しいコンビニの名前にもなっていますが、企業、レストラン、マンションなどの名前にも採用されるほどメジャーな言葉です。

"小康"のはルーツは孔子

儒家が定義した"小康"

"小康"の初出は、儒家の重要な経典である四書五経のひとつ、『詩経』に見ることができます。『詩経』は、紀元前5世紀ごろに、孔子が編さんしたとされています。

民亦勞止,汔可小康。

詩経・大雅・民労』より引用

民は疲弊している。やや安定した生活を送らねばならないほどに。

この頃の中国大陸は奴隷制社会でしたからね。

儒家の思想に大同というのがあります。「大同」とは、偉い人も貧しい人もいない、犯罪も差別も争いもないというジョン・レノンが想像したような理想的社会のことです。儒家は、この「大同」なるユートピアより少し劣る状態を"小康"と定義しました。

明の永楽帝が言及した"小康"

永楽帝は明朝の3代目皇帝です。文武両道に秀で戦争にもめっぽう強かった名君とされ、明朝は大いに栄えました。北京の明の十三陵からも、明朝の繁栄ぶりがうかがえますよね。

如得斯民小康,朕之愿也。

『明太宗実録』より引用

すべての民がまずまずの生活を送れるようにすること、それが朕の望みだ。

永楽帝はモンゴルの南下と倭寇の襲来を撃退しながら強力な独裁体制を築きました。室町幕府との勘合貿易倭寇をけん制し、鄭和を南方の大航海に派遣しました(いわゆる海のシルクロード)。

習近平さんは永楽帝の政治を参考にしているという説もあります。

参考:600年了,习主席为何又要提到他? 「600年後に習主席がスールー王に言及した理由」(中国日報 2016-10)

訪中したフィリピンのドゥテルテ大統領を、1417年、永楽帝朝貢したスールー王国(今のフィリピン)の王様になぞらえて、習近平さんが『スールー王訪中600周年記念イベント』の実施を提案したよ! という記事。

ドゥテルテさんにしたら「知らんがな(´・ω・`)」って感じじゃないの?

大同への道筋を光緒帝に進言した康有為

康有為清朝末期の役人です。1898年、「戊戌の変法」で清朝の政治を改革し、近代国家をつくろうと頑張った人物です。

当時、清朝は列強にどんどん侵略され、土地や利権を奪われ、日清戦争にも負け、弱体化の一途をたどっていました。そこで、康有為は儒家の思想に基づいて世の中の段階を、拠乱世、小康世、大同世の三世に分け、日本の明治維新にならって近代化を進めるよう、光緒帝に進言します。

結局、西太后に阻まれて失敗し日本に亡命しましたが、大同三世に基づく政治改革は、後世で活用されたようです。

"小康"を中共のスローガンにしたのは鄧小平

鄧小平さんは毛沢東に続く2代目最高指導者とされている人物(通常、華国鋒はカウントされない)。大躍進、文化大革命で荒廃した中国大陸を、現在も引き継がれる経済重視の改革開放路線に導きました。

4つの現代化を実現するための「3つのステップ」

中国共産党は、工業、農業、国防、科学技術の4分野を現代化することで、中華人民共和国の現代化を果たそうという4つの現代化を目標に掲げていました。

この「4つの現代化」を達成するために、1987年、鄧小平さんは "现代化发展三步走战略"(現代化発展3つのステップ戦略。以下「3つのステップ」)を策定します。

  • ステップ1
    1980年代末までに、GNPを1980年から倍増し、全人民が着るものと食べるものに困らないようにする。
  • ステップ2
    1995年までに、GNPをさらに倍増する。
  • ステップ3
    21世紀半ばまでに、4つの現代化を基本的に実現する。一人当たりGNPを中程度の先進国と同レベルにし、人民がややゆとりのある生活を送れるようにする"人民过上比较富裕的生活")。

参考:邓小平提出“三步走”发展战略(鄧小平紀念網)

このときはまだ"小康"とは言っていませんが、ステップ3は"小康"そのものです。ちなみに1980年時点の大陸の一人当たりGNPは250ドル程度でした。

GNP倍増計画と改革開放の元ネタは日本?

鄧小平さんは日本の大平正芳総理との交流でも知られています。1978年の訪日で、日本の新幹線に乗って驚いてみせる姿は、今でもたまに映像で紹介されていますよね。

外務大臣として1972年の日中国交正常化に尽力した大平総理は、1978年の総理就任以降、鄧小平さんと4回も会談しています。その際、日本の戦後の経済復興所得倍増計画について、語り合ったそうです。

この日本の経済振興政策が、3つのステップの着想につながったとされています。でも康有為の大同三世とも通じるものがありますよね。

1978年12月、中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議(第11期三中全会)で、鄧小平さんは改革開放路線に舵を切り、社会主義現代化建設の実現を目指すことを宣言しました。

鄧小平が最初に"小康"というワードを使った日中首脳会談

1979年12月、大平総理は訪中し、鄧小平さんと会談します。

大平総理は、「4つの現代化の進捗状況はいかがですか」と尋ねたそうです。これに対し、鄧小平さんは

20世紀中に4つの現代化の実現に目星が付いたとしても、中国のGNPは低いままです。一人当たりGNP1000ドル程度の比較的裕福な発展途上国になるには、より大きな努力をしなければならないでしょう。

と答えました。 後の「3つのステップ」につながる考え方です。参考:1979年12月,邓小平会见日本首相大平正芳(鄧小平紀念網)

そして鄧小平さんは

中国が実現すべき4つの現代化は中国式の現代化です。私たちの現代化は、日本の現代化とは違います。つまり小康の家なのです。 

と言いました。これが「小康の家」の初出です。参考:邓小平提出的“小康社会”是什么含义?中国共産党新聞網)

初めて聞いた"小康之家"を通訳はどう処理したか

ちなみにこのとき、中国側の通訳さんが"小康之家"の訳し方を思いつかなかったというエピソードが伝わっています。

このエピソードには2つの説が存在します。

  1. 適当な訳語が思いつかず、そのまま「ショウコウの家」と訳し、大平総理の反応を待った。大平総理が「ショウコウの家」の詳細を質問し、鄧小平さんが説明して事なきを得た。
    参考:中国の目指す「小康社会」とは? (人民中国)
  2. 「人が健康を回復するとき」と訳した。大平総理は返答に困ったように見えたが、立ち上がって鄧小平さんの手を握ると、笑顔で「中国の皆さんが一日も早く健康を取り戻しますように」と言った。それは"祝您和中国人民早日小康"と伝わった。鄧小平さんも立ち上がって、"好好,小康,我们大家都小康"(「そうですね、我々は皆"小康"です」の意味)と応じた。
    参考:邓小平访日“小康”难倒翻译 竟译为身体健康 「鄧小平訪日 "小康"の通訳に困り、なんと『健康』と訳す」(鄧小平紀念網)

「2」はウソくさいですね。日本側通訳もいたはずだから、なんかおかしいです。大平総理をばかにしてる感じもします。だいたいこの話題が出たのは北京での会談のはず。

「1」は超有名な日本語通訳者の劉徳有さんの文章です。通訳者としても、「1」の対応が正解だと思うんですけどね。

まあいずれにしろ、"小康"が共産党用語になった記念すべき瞬間なので、いろいろ話がふくらんでるのかもしれません。

しかし、この時代って首脳会談を録音してなかったんでしょうかね。

そして中共は改革開放に突き進んだ

鄧小平さんと言えば先富論が有名です。

"通过一部分人、一部分地区先富起来,最终达到共同富裕"(富かになれる人や地域が先に豊かになることで、最終的に全員が豊かになる)の言葉のとおり、沿岸部や南方の経済成長を優先します。

1992年、鄧小平さんは、深圳、珠海、広州、上海などを次々と視察しました。その際の数々の談話が「南巡講話」です。南巡講話では、次のような言葉を残しています。

中东有石油,中国有稀土。中国稀土资源占全世界已知储量的80%,其地位可与中东的石油相比,具有极其重要的战略意义,一定要把稀土的事情办好。

邓小平南巡时指出:“中东有石油,中国有稀土”(中国広播網)より引用 

中東には石油があるが中国にはレアアースがある。世界のレアアース埋蔵量の8割を占める中国の地位は中東に匹敵し、その戦略的意義は極めて高い。レアアースにしっかり取り組まねばならない。

この発言は、1987年に内モンゴル自治区の経済状況を分析した際の確信を語ったものとされています。

鄧小平さんに改革開放の総設計師というニックネームがあったのを覚えているでしょうか? 1970年代に構想したことが、2021年の今に続いているわけですから、まさに総設計師として現代に続く設計図を描いたということですね。

そのいっぽうで、外交に関しては“韬光养晦”(能力を隠して、表に見せない)を貫きました。

 

 

コトバは生き物です。上記はあくまでも現時点で主流の言い方です。